Без любви жить легче. Но без неё нет смысла.

「ジャニーズと備忘録」精神の避暑地

文学研究科の学生がDefiledを観た話

文学部に籍を置いて今年でもう七年目になる。

 院生ということもあって大学図書館にはほぼ毎日通っているのだが、最近、館内を以前より広いと感じるようになった。しかしどうやら気のせいではないらしい。

 

「目録カードを整理して、データベースの一括化を進めているんですよ。」

 

 こともなげに話す図書館職員(司書ではない)の言葉に耳を傾けながらぼんやりと思い出していたのは、他でもなくDefiledのことであり、ハリー・メンデルソンのことだった。

十七年前に初演されたこの作品を取り巻く状況は、紛うことなき現実問題として2017年を生きる私の目の前に現れる。

 

目録カードなんてなくても検索システムで十分じゃん、と思われるかもしれないが、専攻が非英語圏の海外文学となると話は変わってくる。詳細は割愛するけれども、ハリーの言うとおり、目録カードには検索システムで代替しきれない役割があるのだ。目録カードの廃棄は、利便性という側面から見ても研究者からすればかなりの痛手なのである。

 

こんな環境に身を置いているので、Defiledは全く他人事とは思えなかったし、なんならハリーみたいな人間はおそらく文学部に結構いるぞ?いや私のことか?などと考えながら観ていた。今回は観劇時に感じたあれこれを、原著を踏まえつつ述べていきたい。

書きたいことが山ほどあったので、今回は以下の三点に絞って考察する。

 

①利便性と画一化について

②可聴化される「声」について

③ルーツと歴史について

 

堅苦しいやら長いやらでだいぶ読み辛くなってしまったが、しがない学生の自己満足の備忘録として生暖かい目で見守って頂けたら幸いである。

正直一番書きたかったのはおまけの話なので、時間と興味が無ければ一気にスクロールして頂きたい。

 

 

 

①利便性と画一化について

 そもそもこの作品の正式なタイトルは 

DEFILED or The Convenience of a Short-Haired Dog  

である(グッズのブックカバーにも印字されているが、原作に対する敬意が感じられてとても良いなと思う)。小田島さんの訳を借りるのであれば、この副題は「毛の短い犬の便宜性」となるが、副題で指摘されている以上、この「便宜性」について言及せねばならない。

 

便宜性を追求した結果、人はあらゆる物事において「最短ルート」を採るようになった。また同時に、画一化されたものを敬うようになった。

地図アプリを使って迷うことなく店に行き、全国展開しているチェーン店でファストフードを食べる。値段比較サイトを眺めて一番安い流行りの家電を買う。効率的で現実的なその選択を間違っているとは言うことはできない。

けれども同時に、その選択によって手から零れ落ちてしまうあらゆる可能性にも気付いていなくてはならないと思う。

ふらっと入った路地裏で、老夫婦が二人で切り盛りしているお洒落な喫茶店を見つけるかもしれない。直接足を運んだお店で店員と話が弾み、思わぬ商品を勧めてもらえるかもしれない。私自身、人生の豊かさとは「どれだけ脇道に逸れることが出来たか」なのではないかと最近強く感じるようになった。自分の興味のある本だけが直接目の前に出てくる便利さより、思いもよらぬ本に偶然出会う嬉しさを大切にしていきたいし、スーパーじゃなく商店街の八百屋で野菜が買いたい。私はそんな生活がしたいのだ。

 

「便宜性を追求して毛の短い犬を飼う」なんてナンセンスな選択だな、と誰もが笑うだろう。しかしその動機は、程度の差こそあれ、「最短ルート」を求めがちな現代人に共通して存在するものである。そして、ハリーはそこに猛反発する。

 

しかし面白いのは、この便宜性を巡る話が「ハリー対父親」という対立の構図に素直に落とし込めない点である。上演に際してカットされてしまったが、ハリーは便利な犬を飼うことを進言した父親を、便宜性を伴わない「回り道」の例として引用するのだ。ブライアン同様、父親もまたハリーの対極に位置する存在としては描かれない。つまり、この作品には明確な二項対立が存在しないのである。

人間を善悪で二分出来ないのは当然のことだが、「画一化」されゆく世界においては曖昧なものが最も忌み嫌われる。本作においても、0と1の二進法の世界で存在するパソコンとは対照的な、性的マイノリティや人種的マイノリティなどグレーなものが度々登場する。「画一化の進む世界であっても、曖昧なものを許容せよ」というメッセージが随所で感じられるのである。カード目録が利便性を優先されコンピュータに画一化されようとしている。これは、ハリーがユダヤの血を引く人間であり、まさに画一化の為に排他されてきた民族の末裔であることを考えれば、テクノロジーがもたらす画一化された世界の未来に対する警鐘ともみてとれる。マイノリティとユニークは結びつき、それを内包する社会の在り方までもを我々は考えなくてはならないのだ。

 

 

 

 ②可聴化される「声」について

 本作品は二人芝居であるものの、実質的な登場人物はハリーとブライアンの二人に留まらない。ここで全ての登場人物の名を挙げるのは避けるが、問題はこれらの人物が観客に声となって認識されているかいないかにあり、そしてそれはハリー自身の「内在化する声」と密接に関わるものである。

 

ハリーと内なる「声」との関係性を考える上でまず重要なのは催眠術師の存在だ。

「催眠術師の女の前でだけ自分がハンサムであると認識出来る」という暗示をかけられたハリーは、しかしながらそれを「詐欺であった」と断罪する。自身にかけられた暗示、即ち「自己の中での対話・内なる声」は全て自己満足の欺瞞に過ぎないとハリー自身が明言するのだ。

更に「内なる声=騙り(かたり)」であるという図式は元恋人・メリンダとの会話の中でもまた明らかになる。

ハリーのアイデンティティに関わる人物のうち、観客に声となって聴こえる唯一の存在がメリンダであるが、観客に第三者であるメリンダの「声」が呈示されている状況で以下の会話が展開される。

 

メリンダ:あの時、悟ったの。このままあなたに頼ったまま生きていくわけにはいかない。私は自立した女にならなくちゃって。

 

ハリー:そんなの神の声じゃない。それは騙りだ。僕の催眠術師に聞いてみろ。

 

 

このように観客に声が可聴化されている状況で、ハリーはメリンダの「内なる声」の存在を再び否定する。ここにおいて、自身に降りてきた「声」即ち「天啓」はただの「騙り」であるという事実は、我々観客の内に可聴化された確信となって現れる。

 

舞台上をハリーの意識の場として捉えるのであれば、観客に可聴化されない声は全て自己完結する「内なる声」に留まってしまう。ハリーは「僕に与えられた使命」という「内なる声」に突き動かされて事件を起こすが、終始これが「騙り」なのではないかという不安に付きまとわれている。だから全編を通して、彼は自分以外の誰かの「声」を求めているのだ(そしてそれは自分から遠い存在であればあるほど説得力を持つ)。そしてその「声」は観客である我々に可聴化されることで初めて妄想の域を脱し現実となる。

 

しかし実際はどうだろうか。

彼の人間関係を構築する数少ない登場人物(元恋人や姉)と対話を試みるもそれは成立せず「声」は得られない。そして最終的にハリーがすがり追い求めるのはブライアンの妻であるエレナの「声」である。

 

いい声だね。あんたはラッキーだよな。あんな落ち着いた声の奥さんがいたんじゃ、あんたも気持が穏やかになるわけだ。」

「(カードをガレージに保管するくだりで)奥さんは何て言うかな?ちょっと電話しといた方がいいんじゃない?」

 

 

時代の画一化に抗い、歴史を継承する存在として描かれているイタリア。そのイタリアにルーツを持つエレナの「声」はハリーの行為を正当化する上でまさに「天啓」となる重要な役割を有する。しかし観客はこのエレナの「声」もまた「騙り」であることを知っている。何故ならエレナとの対話は観客には可聴化されず、あくまでハリーとの個人的な対話に留まっているからだ。

もしハリーが純粋なユダヤ教徒であれば、形無き「声」に突き動かされる罪悪感は軽減したかもしれない。しかし悲しいかな、彼は無神論者なのである。

 

更に興味深いのは、ラストシーンで流れる音楽が原著で指定されているヴィヴァルディの『グロリア』からカッチーニの『アヴェ・マリア』に変更されている点である。

演出の鈴木さんに依ればこの音楽の変更に深い意味は無いそうだが、「天啓だと信じていた女性の声が実は騙りであった」事実を観客が認識している状態で、たった一人孤独に死んでいくハリーのラストシーンを考えると(原著では死にゆくハリーがとうとう神にすがるのだが、これまた切ない)、『アヴェ・マリア』という選曲の変更は実に印象的で趣深いものになる。

 

ちなみに。

 

恐らくDDDの構造上出来なかったのだろうが、本来のラストシーンは以下のように指定されている。

 

“ライトが消え、建物が崩壊する音が聞こえる。そして炎の灯りが灯り始め、照らされた舞台いっぱいにカードが舞っているのが見える。何千枚ものカードが宙に舞っている。雪のように降ってくる。カードそのものの終焉を一瞬だが壮大に称えて、空中いっぱいに広がる。”

 

いやいや、あまりに幻想的ではないだろうか……再演の暁には是非観てみたいものである。

 

 

 

③ルーツと歴史について

 

ユダヤの血を引く図書館司書のハリーと、アイルランドにルーツを持つ刑事のブライアンは、アメリカにある由緒正しい図書館の一室で対峙する」

 

ユダヤアイルランド、アメリカ。欧米圏で育った人間であれば、このシチュエーションだけで作品に通底する問題を理解するには十分なのであろう。

ユダヤ系という意味で祖国を持たないハリーは、物事の「ルーツ」というものに非常にこだわる人物である。ルーツ、いわば歴史をこともなげに否定されることに敏感なハリーにとって、アメリカ文化が相容れないものであることは明らかである。過去を破壊し、新しいイメージへと刷新していくアメリカ社会に反発するハリーが敬意を払っているのが、歴史と現代とを上手く調和させて生きているパリやイタリアなのである。

 

(私も以前、イタリア人の友人が自分の街にスタバが無いことを誇らしげに話していたのを聞いて、彼らのプライドの持ち方が素敵だなと思ったことがある。もう三年も前になるが、彼女の故郷にまだスタバが出来ていないことを祈る。)

 

一方のブライアンもまた、アメリカにおいては「移民」というルーツを持つ人物である(アイルランド系のブライアンの職業が警察であるという「いかにも」な設定が興味深い)。しかし彼がハリーと決定的に違うのは、彼に祖国が存在することと、それ故に過去よりも現在を強く認識して生きていることである。

日本で生まれ育った以上、彼らの境遇や心境を本質的に理解することは出来ない。しかし過去と未来、どちらに機軸を据えて生きるかという次元の話に置き換えれば、問題は即座に現実味を帯びる。自分が生きる上で、拠り所とするべき「確かなるもの」は一体何だろう。

 

時代が進むに連れ、人間も社会も、あらゆるルーツは曖昧になっていく。実在しないはずの天皇が教科書に載り、受験の時に必死で覚えた年号が変わっていく。自分の先祖にアングロサクソンはいないと誰が言い切れるのか。

それでも人は、自分を含む歴史の中の「確かなるもの」を必死で探し、それにすがりついて生きていく。或いは時代に流されるまま、目の前の現実こそ全てだと割り切る。どちらの選択であっても人が生きる上では平等に正しく、誰であってもその選択を否定することは許されない。

自分とそのルーツを内包する人類の智の歴史を守ることを選択したハリー、目の前の家族と自分の人生を守ることを選択したブライアン。規模の大小こそあれ、其々に守るべき信念がある。人は自分の誇りと愛する者を守る為に闘っているのだ。それでも歴史という広大な海を前にしては、一世紀すら生きられない人間なんて実にちっぽけな存在である。人は歴史の前で皆平等に無力であり、ハリーは図書館の為の殉職者ではなく、気の狂った犯罪者として歴史の波にのまれてしまうのだ。

 

図書館で歴史を感じるといえば。

 

私の所属する大学の図書館は、蔵書数でいえば日本で五本の指に入る。ハリーがいた図書館のように建物自体に立派な歴史はないけれど、それでも梯子を使わないと届かないような高さの本棚がずらりと並ぶ空間に佇んでいると、本と本が持つ歴史に思いを馳せずにはいられない。この図書館という大きな箱に、小さな本たちが何百万冊もぎゅうぎゅうに押し込められている。その何百万冊の一冊一冊に作者とその人生があり、その作者もまた人生において、何千冊もの本とその作者の思考の影響を受けている。少し想像するだけでも実に途方も無い時間の流れがそこに在るのが分かる。図書館とは、本とは、そのような存在なのだ。

 

空調の音だけが響く広い空間で、椅子に深く腰掛けて本を読む。周りの本は、人類の智の歴史そのものである。図書館に来るたびに圧倒されるのは、本が多いからというよりも、そこに存在する歴史や時間が生々しく感じられるからだろう。感覚としては、荘厳な教会の真ん中で一人ぽつんと立っているのに近い。自分の想像の範疇を超えた、量りきれない歴史の重みに押しつぶされそうになる。

歴史と智が集積している図書館。そこを散策する為に必要な道しるべとなる目録カードは、司書の手によって一枚一枚丁寧に書かれ、そこには確実に人間の体温が宿っている。そんなカードによって自分の知識欲が刺激される感覚や、新しい本や人、歴史に出会う前の何とも言えない高揚感。ハリーが一生懸命守ろうとした「神聖なもの」とはこのことだったんだろうなと思う。

 

手作りの爆弾を一つ一つ本棚に置いていくハリーの姿を思い返すと、とんでもなく切なくなってしまうのだ。

 

 

 

 

 

2000年にロサンゼルスで初演されたこの作品、原著でハリーの年齢は四十前後という設定で、ハリーを演じたJason Alexanderは有名なテレビコメディアンである(実際、観客は彼を目当てに足を運んだ)。日本人で例えるなら石塚英彦さんや伊集院光さんあたり、ということらしいが、確かにそう考えるとハリーが自分のことをハンサムかと尋ねるくだりや恋人に裏切られた話にも合点がいく(おそらくあのシーンは全えび坦が「このハリーは宗教上の理由で、鏡で自分の顔を拝めないとかいう設定なのか?」とツッコミをいれたはずである)。そして何より、必死になって目録カードを守ろうとする頭の良さだけが取り柄の冴えない中年男性をお茶の間で人気のコメディアンが演じているという姿には、滑稽であるが故の切迫性と哀愁が感じられたはずなのである。

 

そういった意味でも原作のハリーと戸塚さんとの隔たりは大きく、演じるのが難しいだろうということも想像に難くない。それでも最終的に戸塚さんを観ても脳が「ハリー」としか認識出来なくなっていたくらいには、戸塚祥太はハリー・メンデルソンだった。戸塚さんとこの作品を出会わせてくれたどこかの偉い人に感謝の辞を捧げたい。つかこうへいが苦手なので、正直今まで戸塚さんの演技には殆ど思い入れがなかったのだけど、とりあえず今は戸塚祥太の目の演技が良いということに早く関係者が気付いてくれることを願うばかりである。

 

 

勝村さんに関しては「好き好き大好き超愛してる。」以外の言葉が無い。勝村さんに「かみさん」と呼ばれるべく転生したい気持ちで一杯である。勝村さんを観ていると、役者に国境が存在しないことをひしひしと感じる。本当にアイルランドで鱒を釣ってそうだし、イタリア系の奥さんがいるように見えてしまうんだから凄い。そういえば『ウーマン・イン・ブラック』を観たときもイギリス人を何の違和感もなく演じていて、そこでも私は軽率に惚れていたのを思い出した。

 

(幾つかの例外はあるが)テレビドラマでは人種の壁を超えようとすると違和感が生じてしまうように、映画を除いた映像作品は現実世界に倣った作品が多い分、演劇的な非現実性をそこに求めるのが難しい。劇場という制約のある空間で、二時間ばかり別世界を覗かせてくれる「演劇」が私はやっぱり好きである。その瞬間しか見ることの出来ない役者の表情を目で追い、彼らの息遣いを感じる。そんな「触覚的な演劇体験」は確実に人生を豊かにしてくれるんだろうなと思う。

 

 

 

 

 とても長くなってしまったが、最後に一つだけ、おまけの話をする。

 

 

今回Defiledの感想を書くにあたって当時の劇評を参照しようとした私は、大学図書館の雑誌書庫に足を運んだ。

週刊誌から月刊誌、専門誌に至るまで、膨大な量の各国の雑誌が年代順で綺麗にファイルされている。オンライン上でではなく現物の雑誌が読みたかったのだが、検索すると該当する版がいくつか出てきてしまう。現物で読みたいという旨を図書館職員に伝えると、数分のパソコン操作の後こんな答えが返ってきた。

 

「この号はオンラインでしか見られませんね」

「いや、現物も保管されてんじゃないか?」

 

司書ではない彼らは、学生である私と同じように検索システムを使い、私が出したのと全く同じ結果を指で示す。

「ハリーみたいな司書がいたらスムーズに導いてくれたんじゃなかろうか」と苦笑しつつ尋ねるのを諦め、自分の手で一冊一冊雑誌をあたってみることにする。

 

読みたかった2000年6月19日発売のTIME誌はものの30分ほどで見つかった。しかし、劇評は確かにこの号に載っている筈なのに、目次にはDefiledのDの字も見当たらない。

仕方がないので一ページずつめくりながら劇評を探す。

 

あった。

 

確かにあったのだ。

 

私の掌よりも小さな記事が、目次にすら載らない小さな記事が、雑誌の終わりの方の目立たない場所に、ちょこんと慎ましやかに載っていたのだ。

 

 

どうしてこの記事はこんな隅っこに追いやられているのだろう。そう思って表紙を見返し、愕然とした。

 

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『テクノロジーの未来』

 

嫌な偶然だなと思うが、この号のTIME誌では最初から最後まで、細部の広告に至るまで、進化するテクノロジーとそれが切り拓く未来についての論が繰り広げられていた。

 

ハリーの闘いは誌面上にまで持ち込まれ、そして彼はそこでも負けていたのだ。

 

何とも皮肉な話である。